舞台「ゲルニカ」、血が彩った名画、やがて
アフターコロナの初現場はパルコ劇場のオープニングアクト、「ゲルニカ」でした。
優馬の舞台は一度は足を運びたいと思っているし、3月にチケット取っていた日の偽義経が僅かのタイミングで中止になってしまったこともあり現場の再開にちょうどよくない?
なんて思ってた私の横っ面張り倒してやりたい。久しぶりの現場ということを差し引いても衝撃がすごかった。とんでもなかった。演技も脚本も演出も装置もすべて。
家に帰ってもテレビや録画に集中できず、寝てしまおうとしても眠れず。考えようとせずとも心から離れない。
1人観劇だったのですが、他の方はどんな思いでいるのかと検索かけてみると同様に言葉にできないという感想がちらほら。それに少しホッとしてやがて眠りについたのでした。
少し落ち着いたので、自分の頭を整理するためにも文章にしてみます。
以下はネタバレだらけの感想。
これは血の物語だと思った。女優さんが、特にゲルニカに生きる3人の女のシーンは壮絶だった。
キムラ緑子さん演じる黒衣のマリア。聖母の名前を持ちながら子供を産まない彼女が護ろうとするのは血統か。領主の家を守るため血のつながらない娘を育てるのは娘への愛ではなく家のため。
石村みかさん演じる女中のルイサ。ジプシーの血のために、自分の娘に母と名乗ることもできず女中として愛情こめて娘であるサラの世話をする。サラがマリアの意に沿わないことをすれば、自分の責任として血が流れるほどマリアに鞭打たれる。
そしてサラの結婚式の日に屋敷を追い出されて難民に襲われ命を落とす。
そして上白石萌歌さん演じる娘、サラ。自分に半分流れるジプシーの血。実の母親が優しかったルイサだと知り、それゆえマリアに愛されなかったことを知る。
家を継いでゆくべく育てたサラに決別を告げられて、それでもまだゲルニカの土地を愛していたマリアのタガが外れ、それがゲルニカ空爆の引き金となる。
半分ユダヤの血が流れている中山優馬演じるイグナシオ。かれも血に翻弄される。その血ゆえに大学をやめて軍に入隊。サラと出会って結ばれるものの、彼女の妊娠を知ってもその血のために喜ぶことができず空爆の前日に「逃げろ」としか言えない。
妊娠7ヶ月で子供を産んだサラ。血塗れの子供を抱き、緑のワンピースが赤く染まる。
妊娠がわかって以降、サラの衣装が緑のワンピースになるのだけど、それ以前のサラを含めたキャストの衣装が茶色〜黒なので、その緑が目に鮮やかに飛び込んできて印象に残るのだ。命を宿した彼女と聖なる樫の木のリンクなのかしら?命のときめきを鮮やかな色で表現した?とか思っていたのだが、出産の血に染まるそれを見て、もしかしたら血の色を際立たせるために反対色の緑を持ってきたのか?と思い直した。なるほど、これは血の物語なんだ、とそこで思いました。
そして、文字通り赤に包まれるクライマックスを見て、あぁここも赤だ…炎と血だ、と思った。白黒で描かれたピカソのゲルニカに血で彩色したということ?
ピカソのゲルニカが白黒なのは、「色彩=感情」ととらえて、感情を排除して事実を報道する意図があった?感情を鑑賞するものに委ねて?
とまで考えたのだけど、書いているうちにふいに、あ……違う。と気づいた。
きっかけはやはりサラの緑のワンピース。緑は赤が染みると黒になるんだ。
マリアは喪服を脱がない。
時折現れるルイサの亡霊は袖を通されることのなかったサラの純白のウエディングドレスを抱えている。白と対比することで、乱暴で汚されたその身の黒さが強くなる。
空爆で燃えた街や森も黒い焼け野原になる。最終的に絵画のゲルニカと同じく、やがて黒になるのだ。
一度、生きた人間の象徴としての血で彩ったあとに、すべての生や感情のなくなったモノクロに回帰するという、ゲルニカが白黒で書かれていることの解釈なのかもしれない。感情を消し去ったその画面はより報道色が強くなり、見るものの感情を喚起する。あなたの感情で彩色しなさい、と。
見れてよかった。もう一度見たいと思うけど、あまりにヘビーでちょっとチケット探すのに二の足を踏む。一度でも見れてよかった。どんどん忘れてしまうから少しでも記憶に残るように頑張って書きました。ようやく先に進める気がする。